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木曜日, 9月 16, 2021

刑死にあった山南生官生賀段志

刑死にあった山南生官生賀段志

段志毎は洪武26年入監の中山王察度派遣の官生である。この段志毎の入監の時に他にもう一人いてその人は刑死にあった説く書があるが、果たして洪武26年には二人の官生が入監していたのであろうか。もし二人入監していたとしたら、誰と誰であったのだろうか。刑死に遭ったのは誰であったのだろうか。それらを明らかにするのが目的である。

諸書によると洪武26年入監官生について次のように記している。

『明実録』・・・洪武二十六年四月乙亥朔 (辛卯)琉球國中山王察度、遣̪使壽禮結致、貢馬及方物、幷遣使寨官子段志毎、入國學讀書

『中山沿革志』・・・二十六年、遣使麻州等貢方物、已又遣使壽禮結致等、貢馬、偕寨官子段志毎、入國子監讀書、太祖命賜夏衣靴襪、秋又賜羅絹衣一襲、�從各給布衣、嗣是、歳必有賜

『中山世譜』・・・二十六年己酉、王遣麻州等、貢方物、又遣壽禮結致等。貢馬、偕寨官子段志莓(ママ)、入監讀書

『女官生姑魯妹』・・・三五魯毎が洪武二十六年に入監(明実録と明史をもとに私が導いたもの)

以上の記録から見て洪武26には段志毎一人が入監したものと思われる。ところが阿波根朝松の『歴代官生氏名年表』を見ると

37段志毎にしみ外一人 1392 洪武26 元中10 中山王察度 寨官ノ子 遣明使者 見聞録には段志毎と表記。他の一人は詔書をしたるため彼の地で刑死(仲原氏覚書)

また仲原善忠の『官生小史』所載の『官生年表』を見ると、洪武26年入監官生のことを次の如く記している。

3 洪武26(1393) 中山王察度 段志毎 寨官ノ子 「明使」(ママ)二四(ママ)トアリ 中山生一人死刑、詔書ヲ非難シタ罪

右の阿波根朝松と仲原善忠の両氏の説に若干の問題があるので考察を試みたい。

仲原善忠の『官生小史』の洪武26年の入監官生段志毎の備考に『中山生一人死刑、詔書ヲ避難シタル罪』とあるのは、『明史(巻223 外国4 琉球傳)』の明年(洪武26年)『中山両入貢、又遣寨官子、肄業國學、是時國法嚴 中山與山南生 有非議詔書者、帝聞 置之死、而待其國如』に拠っていると思われるが[注1]この『明史』の記録からは、仲原の説くように中山生一人が死刑になったという解釈は生まれえないと考える。何故なら『明史』を素直に読んで明らかな如く『明史』には入監」したのは中山の段志毎のみであり、そして「中山與山南生」が刑死になったことを記しておるのです。決して中山生のみが刑死にあったということことは書かれてはいないのである。従って仲原の『官生小史』の備考欄に於ける誤解によって生じた説を踏襲して、洪武26年入監者を段志毎 外一人とした阿波根朝松の『備考欄』の説も誤りだといえよう。

では右に記した『明史』をどの様に解釈」すべきだろうか。『明史』で「是時」とは」、洪武26年である。前に見たように洪武26年には中山官生段志毎が一人入監しているのみである。なのに『明史』では「中山與山南生」記している。これをどう読むのかだが、中山生と山南生とが刑死されたのであるから 洪武26年に段志毎が一人入監したときには、すでに山南生がいたということになるだろう。

さて洪武26年現在に於いて在監かんして琉球ンお官生にどのような人達がいたのどろうか。『明實録』に拠ると、日孜毎(中山生)[注2]、濶八馬(中山生)[注3]、仁悦慈(中山生)、三五郎尾(山南生)、實他盧尾(山南生)、賀段志(山南生)及び26年入監の段志毎(中山生)の7人が在監している。この7名のの中に、詔書非議して刑死されたものがいたのであり、決して洪武26年の入監者が2人いてその中の一人が刑死されたのではないのである。

何名が刑死されたのかしる術もないのであるが、三五郎尾(山南生)、實他盧尾(山南生)の2人は『明實録』に洪武29年

に帰国したとあり、仁悦慈(中山生)も『明實録』に『洪武30年8月庚辰朔、賜國子監琉球生仁悦慈等羅衣、人一襲』とあるから、この3名は刑死されなかったことは確実である。

洪武26年現在在監していた7名の中、右3名を除いた残り日孜毎(中山生)、濶八馬(中山生)、賀段志(山南生)段志毎(中山生)の4人中いずれかが刑死されたと思われるが、刑死されたのは中山生と山南生であることからすると、その内山南生は賀段志(山南生)しかいないので賀段志は当然に刑死されたであろうと考えられる。しかし残り中山生が何人処刑されたのか分からないが、『明實録』に帰国したという記録がない、日孜毎、濶八馬、段志毎も処刑されたと考えるのが妥当であろう。

まとめ

1 段志毎は洪武26年に入監したが、その時の入監者は彼一人であった。

2 賀段志(山南生)は処刑されたと考える。

3 帰国した記録のない中山生である日孜毎、濶八馬、段志毎等も処刑されたと考えられる。

4 仲原 阿波根の説に誤解を検証した。

以上、小生なりに結論を出してみた。諸兄にご批正を賜ることができたら幸甚に存じます。

[注1]仲原善忠は『官生小史』の作成要領を次の如く記している。「氏名の検出は、中山世譜、明史(列傳)、清史稿(列傳)を中軸とし、他の諸書を参考にした」と、洪武26年段志毎の備考欄で『明使』とあるのは『明史』の誤植と思われる。また、備考欄に記されている事件は、野口鐡郎も説くように明史以外に中国の史書、琉球の史書は傳えるところがない。以上の理由により「明史」に拠ったとしたのである。

[注2]日孜毎(中山生)、濶八馬(中山生)が明らかに洪武26年まで在監していたとの確証はないが、彼らと同にきた仁悦慈が洪武26年現在において在監しており、又洪武29年まで、官生の帰国のことが見えない。以上のことに拠って在監していたとしたのである。

[注3]もし賀段志が処刑されたとすれば、洪武26年11月壬寅朔、壬寅以後である。何故なら、その時までは賀段志は生存していたからである。